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スマホアプリ「コインパズル」開発者の日記https://bit.ly/35gpWAB

〜回顧録16〜震災

その頃、東日本大震災が起きた。
私が富士見台のドラックストアーから出た瞬間だった。
今まで体感した事の無い大きな揺れだった。
普段塾で理科を教えていた私は、自分がマントルと言うマグマの海の上に浮かぶプレートと言う小船の上にいる事を体感した。
本当に船に乗っている様だったのだ。
駅前でたむろしていた女子高生たちがギャーギャー騒いでいて、電線がブランブランと揺れていた。
私は突如ミーハー心が湧いて、ボロい建物から外壁が崩れ落ちていくのをiPhoneで撮影した。
私はその時地震に対して妙に冷静で、まぁ死ぬ事は無いだろうとタカを括っていた。
 
 
本当に焦ったのはその後だ。
トキワ荘(プロジェクト)に帰って、まだブラウン管だったテレビを付けると、黒い波が東北の街を覆っていく映像が流れた。
余震が続き、ボロいトキワ荘(プロジェクト)は今にも潰れそうだった。
本当に家が潰れる気がして、同居人5人で練馬区役所に避難する、と言う大袈裟な行動を取った。
帰宅難民以外は区役所で寝泊まりする人はいなかった。
 
その日、脳が揺れたせいか、色々な思いが頭をよぎった。
自分はなぜ漫画家と住んでいるのだろう、なぜ東京にいるのだろう。
漫画を描いているでもない。
自分1人でアニメを作るだけなら東京にいる必要は無いのではないか。
当時トキワ荘(プロジェクト)の居住期限は3年と定められており、自分はもう4年目に差し掛かっていた。
当初住んでいたTさんを含む初期メンバーは皆引っ越した。
私だけがトキワ荘(プロジェクト)に残り続け、新しいメンバーに先輩風を吹かしていた。
 
 
 
しかし、乗り掛かった船である。
とにかく、「聖アニマル学園」だけは東京で作ろう。
作ってYoutubeに上げよう。
震災でぶっ壊れていく東京で、自分は淡々とアニメを作ろう。
考えるのは、それからだ。
マントルの海に漂う北米プレートの上で、私は相変わらず自分に酔っていた。
 
 
 
それから1年という長い期間をかけ、たった10分のアニメ、聖アニマル学園は完成した。

〜回顧録15〜野村監督のギャラ

暫くして、Wさんから再び連絡があった。
新しいアニメの企画を考えて、ワンセグ企画に応募しよう、と言うのだ。
私は拒否した。
「聖アニマル学園」をYoutubeで発表する事しか考えていなかった。
 
しばらくしてまた連絡があって、どうしても了承しない私に諦めたのか、Wさんはもう一度ワンセグ企画に「聖アニマル学園」を応募してくれると言う。
私は新しい企画書を書いて、もう一度「聖アニマル学園」を応募してもらった。
 
実は私にはNHKに顔が効く叔父がいた。
このコネで、なんとか企画を通せないものかと考えたのだ。
 
その叔父に無理を言って頼んで1ヶ月くらいした時、叔父から連絡があった。
私の企画書が無いと言う。
企画書は個人で出すことは出来ない。
NHKに関連のある制作会社しか出せないので、W氏が出したものだとばかり思っていた。
 
結局、W氏は新しいアニメ企画を出したかったが、それでは私が納得しないので、ひとまず出した事にして落選を伝え、次のアニメ企画を作らせる流れにしたかったのだと思う。
案の定、W氏から連絡があり、落選の留守電が入っていた。
私はW氏から何度も入るので着信拒否にした。
 
Youtubeで作ろうとは思っていたが、叔父は企画を全部見ることが出来る立場にある事は分かった。
もしかしたら、とりあえず出せば通るのかもしれない。
別の制作会社に勤める友人Zに頼んで企画書を出してもらう事にした。
大学時代、一緒に映画を作っていた仲である。
 
ひとまず出してもらえる事にはなったが、通っていないのにギャラで揉めた。
W氏の会社と同じ金額にしたのだ。
しかし、そんなに出せない、と言う。
その額は、当時はまだご存命だった野球の野村監督のギャラと同じだ、と言う。
何故突然野村監督の名前が出たのか、おそらく上司がそう言えと言ったのだろう。
しかし、これは全然違う話だ。
野村監督は3分だけしゃべれば良い。
私は3分の映像に1年の構想期間と1ヶ月の制作期間をかけ、必死で作るのである。
それが筋合いの比較である事は間違い無い。
もっと言うと、私が全部作るのであるから、NHKからもらう製作費の半分以上を制作会社が抜くのは意味が分からなかった。
 
Zも上司から言われた通りに話しているだけなのだろう。
大学時代、本当に良い友人だったZと金で揉める事は本当に心が折れた。
結果、ギャラの話は通ってから、と言う事になり、出すだけ出してもらえる事になった。
改めて企画書を書いて、叔父にもしっかり連絡してから出した。
 
 
 
結果はなんと、一次審査落ちだった。
一度出した企画はダメらしい。
叔父のコネなど意味は無かった。
 
結果、大学時代の友人との間にヒビだけ入って終わった。
やはり、Youtubeで作るしか無いのである。

回顧録14〜ワンセグ企画〜

私は新しいアニメの構想を思いついた。
とにかくヒットするものを、と目を血走らせていた私は「学園」と「動物」に目を付けた。
ろくでなしブルースGTOなど(古い)、ヒットするコンテンツは学園モノが多い。また、Youtubeでは動物の映像が再生数を伸ばしていた。
この2つをどうにか結びつけようと、考えた結果がこうだ。
絶滅危惧種の動物達は絶対に繁殖しなければならない。ならば、絶滅危惧種の動物達を集めた、繁殖術(モテ術)を学ぶ学校があれば良いのではないか」
絶滅危惧種の中で、最も可愛い動物はなんだろう、とググった結果、カモノハシに落ち着いた。
カモシーくん、なる主人公を作り、大学で学んだパステル画とアフターエフェクトというソフトを使って私のアニメ作りはスタートした。
私の人生は高校の頃漫画に始まり、大学では映画を作り、卒業後再び漫画を描き、iPhoneアプリを作り、アニメを作り始める、という訳の分からない軌道を描いていた。
幸い、トキワ荘(プロジェクト)は漫画を描く場ではあったが、クリエイティブな事をするには寛容であった。
 
折しもその時、映画学校時代のYahoo知恵袋を見せて来た友人、W氏から連絡があった。
W氏はNHK関連の番組制作会社に勤めていた。
NHKが「ワンセグ企画」という携帯電話のみを所有する人からも受信料を徴収するための、携帯で配信する番組の枠を企画していると言う。
この枠にプジー君、何か出さない?という。
 
これは、カモシーくん主人公の「聖アニマル学園」を出すしかないだろう、と即断した。
W氏は面白い、と言ってくれて、W氏が脚本を書いてくれる事になった。
 
100作品以上あるらしく、まず無理かと思っていたのだが、企画書は1次2次と順調に通過し、3次でNHKに行き、面接となった。
その面接も通過して、残りは10作品で5作品は放映というところまで行った。
 
相変わらずの「しかし」が起きる。
私はその時も塾講師をしていて、富士見台から石神井公園までの西武池袋線の車中であった。
W氏から電話があり、車内がスカスカだったので、思わず出てしまった。
「ごめん、なんか落ちたみたい。編成局長がありがちだってNG出した。。」
「そうですか」
電車の中だったので、すぐに切った。
 
 
その日中凹んだが、当然諦める気は全然無かった。
一人でこの作品を作り、Youtubeで発表すると言う本来の道は残されているのだ。

回顧録13〜ユーチューバー〜

もう億万長者も目前か、などと有頂天となっていた私だが、初月の売り上げは1万円程度だった。
どの様に収益化したか、というと、物語を前後半に分け、前半無料、後半を有料にした。
今自分でプログラミングをし始めて思うが、収益化の実装は技術的に難しい。
当時組んでいたプログラマーのAさんは凄かったのだ。
 
次の月は10万円くらいいくか、と考えていたが、逆に5000円程度になっていた。
しかも、Apple社からの支払いは、なぜかドイツの銀行を経由し、自分の懐に入る時には5000円程度になっていた。
当初は燦然と輝いて見えたiPhoneアプリの日間1位など、実は風が吹けば飛んでしまう様な功績だったのだ。
アプリの世界では1週間とか1ヶ月とかくらいはトップ近くに食い込まないと、全然「食っていける」レベルの収益を上げる事は出来ないのである。
 
 
それから、色々な人に感想を求め、アプリをひたすら見せて回った。
その結果、「画面をタップする意味が乏しい」という結論に落ち着いた。
確かにその通りである。
漫画は紙で見せる制約上、仕方なくメディアに働きかけ、次のページをめくる、というアクションがある。
しかし、映像で見せるなら、アニメの様に受動的に見た方が面倒臭くなくて良い。
「なるほど、では次はアニメを作ろう」
そう思ってしまった。
この選択は今となっては、正しいかどうか分からない。
iPhoneで見せるストーリー仕立てのもの、として特化する道もあったように思う。
 
折しも当時、大学時代に撮った映画をYoutubeに載せていたが、それの収益化の案内からGoogleから届いた。
私は自分の作ったアニメをYoutubeに載せ、稼ぎまくる、という道が見えた。
時は2010年。
今でこそ陳腐な夢になったYoutuberだが、当時は多分、ブルーオーシャンと言ってよかったと思う。

回顧録12〜クラッシャー〜

私は受賞からデビューという華々しい?道を辿り、漫画家の先輩に奢ってもらったりして、少し良い気分になっていた。
ムック本にも再掲されたのだから、きっと次も描きませんか、という話がある筈だろう、そう思っていた。
その時である。
 
 
なんと、突然「漫画実話ナックルズ」が廃刊した。
私はそれから友人に「クラッシャー」と呼ばれる様になった。
デビューした雑誌が廃刊になると付けられる、漫画家の不名誉な異名である。
 
いや、これは私の問題ではなく、漫画が不況なのだと思おうとした。
これは2010年前後の話だが、その頃空前絶後の出版不況が訪れており、電車の中でも漫画を読んでいる人より、スマートフォンをいじっている人の方が多くなっていた。
加えてその当時、iPhoneアプリなるものが登場し、個人発信でリリースできる世の中になってきていた。
もちろん、スマートフォンで漫画を読んでいる人もいたのかもしれないが、スマートフォンで漫画を読ませるなら、音が出たり、動くアプリの方が面白いと感じた。
 
 
 
ある日プログラミングの講習会に参加した。
プログラミングを学ぶのではない。
出来る人を探そうと思ったのだ。
 
私の計略は意外にも当たり、駆け出しのプログラマーの人が乗ってくれ、iPhoneアプリを作るに至った。
私は大学時代デザイン科に在籍し、映画サークルに入っていたので、絵を描き、パソコンに取り込んで、簡単なアニメーションを作る事ができた。
それをプログラマーの方に渡し、iPhoneの画面にタッチしたら動くアニメを作った。
私はそれを「光画」と名づけ、漫画に次ぐ新しいメディアだと息巻いた。
 
内容はというと、「新約・北風と太陽」という話だ。
話は一般的なものが良いと考えた私は、世間に馴染みのある話のパロディを考えた。
北風と太陽が旅人の服を脱がせにかかるが、その旅人が女性だと分かった瞬間、真面目な太陽がこんな卑猥な事は許されない、と北風の横暴を止めに入る。
しかし、実は太陽はムッツリスケべで、直射日光で気温を上げ、北風を止めるフリをして脱がせにかかる、というどうしようもない話である。
 
このアプリは、AppBankにメールして売り込み、村井さん(現在はマックス村井さんとして活動中)が面白いと言ってくれて、AppBankの中で取り上げてくれた。
そのおかげで日間の売上数で1位を記録し、私は再び有頂天となった。

回顧録11〜出来れば低い壁を越えたい〜

私は再びネーム地獄の日々を送った。
Tさんと一緒に受賞したのだから、私はTさんと一緒に漫画を描きたかった。
しかし、Tさんはヤングマガジンで担当がいて、月に何回かはネームを持っていかないといけないらしい。
だから私は一人で「サイレントモールス」という作品を書いていた。
彼氏と同棲する売れっ子女性漫画家が、編集者に誘拐、監禁され漫画を描くという話だった。
彼氏になんとか助けを求めるため、漫画の断ち切り(単行本の背表紙の逆)にモールス信号を並べ、彼氏に助けを求める、という話だった。
担当さんは面白いと言ってくれたが、編集者が犯罪を犯す点が気に食わなかったらしく、ボツを食らった。
 
それから、「ファットボーイ スイム」という大学時代に撮った映画を漫画化する事にした。
うだつの上がらない浪人生が女にフラれ、海に勉強道具が入ったリュックサックを投げ捨てるが、泳いで拾いに行く、という話だった。
この話は、アシスタント先の先生にネームを直してもらったりもした。
 
そちらも担当さんの評価はイマイチで、ボツとなった。
それぞれ、2、3回はネームを直していたので、かなりの労力で心は折れ気味だった。
同時に私はスピリッツという花形雑誌の新人漫画家の層の厚さを感じていた。
多分、担当さんは私以外にも何人も新人を抱え、私はその中の一人に過ぎないのだろう。
今になって思うと、私は高い壁をよじ登るタイプの人間ではない。
散々壁の周りを回った挙句、壁が低い所を登ろうとする傾向にある。
そういう所はスポーツ選手やアーティスト向きではないのかもしれない。
 
そんな中、トキワ荘プロジェクトの方から、漫画実話ナックルズ、という雑誌で漫画家を募集している、という話を受け、打ち合わせに行った。
ここは壁が低いのではないか、失礼ながらそんな読みがあった。
 
 
私は受賞作を見せ、高評価をもらった。
その後、デビューの話を受け、快諾し漫画を描いた。
スピリッツ賞佳作、という箔のおかげでデビューできたようなもので、冷静に考えればT氏の力によるデビューだったと思う。
 
締め切りまで二週間しかなく、塾の講師のバイトをしながら必死で仕上げた。
漫画実話ナックルズらしく、電車で轢かれた死体を処理する話で、死体処理にハマっていくヤバい鉄道員の話だった。
時間が無い中だったが、描いていて面白いというか、それなりの手応えがあった。
 
いざ載ってみると、大学時代の友人から電話がかかって来て、このコマのこの女性とか、もっと丁寧に描けなかったの?
などと言われた。
今思うと、デビューして昔の友人から祝福を受けないところなど、自分の素行が良くない事が窺える。
 
しかし、漫画が好評だったのか、一度紙面に載った後も、コンビニでよく売られているムック本「本当にあった怖い話」的なものに3回ほど再掲され、その度に小銭が入った。
後で聞いた話だが、塾の事務の方々が雑誌のアンケートハガキを書いて組織票を入れてくれたらしく、多分そのお陰だろう。

回顧録10〜ビッグマウス〜

大分間が空いてしまったが、応募後の話を書いていきたい。
応募して3ヶ月くらい経って、全然連絡が無かったので、もうダメかな、と思っていた。
 
ある日突然、家の電話が鳴った。
トキワ荘プロジェクトの家には固定電話があるのだ。
 
住所を書いたが電話番号を書き忘れていたらしく、住所からトキワ荘事務所に問い合わせて、連絡してくれたらしい。
佳作だった。
普通、奨励賞しか出ないらしく、担当さんは非常に褒めてくれた。
以下がその受賞作である。
同居人にも半分はT氏の力である事を忘れてドヤ顔した。
 
 
ちょうどその頃、トキワ荘プロジェクト入居直後に撮られたテレビ番組が放映となった。
収録終了から2年くらい経った頃である。
私はせっかく受賞したのだから、その情報を追加してくれ、と頼んだが映像を差し替えるのはもう間に合わないらしい。
 
放映時、漫画のアシスタント(以前書いた先生のところ)中で、電話が鳴りまくるので、外に出て話た。
高校と中学の同級生から1人ずつ電話があった。
「あの漫画のココを変えた方が良い」とか「意外と頑張ってたんだね」などとどちらかというと肯定的なコメントをもらった。
 
漫画のアシスタントからから帰ると、トキワ荘にはDVDが送られて来ていた。
さぞやかっこ良く映っているのだろうと期待したのがアホだった。
私はビッグマウスというあだ名を付けられて、相当ないじられっぷりだった。
その上、コメンテーターに「ご両親の心情を思うとやるせない」などと言われる始末。
 
その後、映画学校時代の友人のW氏から、Yahoo!知恵袋でお前の記事が出ている、と教えてもらった。
Yahoo!知恵袋でのやり取りは以下の様なものだった。
「某番組に出ていた男性が印象的でしたが、漫画家になれるのでしょうか」(ID未登録さん)
「漫画家などになれる訳もなく、才能もありません。大卒ですが、新卒の時期を逃しているので、再就職は難しく社会の底辺にいて、再帰不可能です」(ベストアンサー)
「ありがとうございます。やっぱりそうですよね!」(ID未登録さん)
ボコボコに叩かれているという記事をわざわざ教えてくれんでも良い、と心から思った。
 
世の中には、理路整然と大学教授の様に、無防備な若者を踏み潰せるヤツが居るのだ。
社会の正しさを主張する親戚の叔父さんの様に、一般的に正しいとされる事をネットに書いて、さも自分は偉いと言いたい連中がいるのだ。
何故か時々、この記事を読み返しては、胃液が食道を上がって来るのを感じてしまう。
読むだけで一瞬で不快になれる呪いの文章だ。
 
 
 
その頃、スピリッツに漸く受賞者のページにワンシーンだけTさんとの漫画が載った。
当時住んでいた東京都練馬区、富士見台の焼肉屋、「牛蔵」で入居者から祝ってもらった。
トキワ荘(プロジェクト)に住み始め、3年目の春だった。