回顧録8〜漫画家アシスタント〜
回顧録7〜担当が外れる〜
回顧録6〜担当が付く〜
回顧録5〜塾講師を始める〜
私は当時、大学のデザイン学科で学んだ技術を活かしてDVDのメニュー画面を作るバイトをしていた。
映画のDVDだと研究室の先輩に聞いて入ったのだが、入ってみるとほとんどエロビデオだった。
フォトショップと言うソフトで100本くらいは自分が作ったメニュー画面を世に送り出したと思う。
あまり抵抗も無かったので、淡々と仕事をしていたが、時々検品の作業もあって、内容がしんどいモノもあった。
排泄物やゴキブリが出てくる様なキワモノAVの検品もあって、それを2時間くらい検品していると頭がおかしくなった。
時にはモザイクをかける仕事もあって、ガンダムのコクピットの様な操作機材の前で延々と女性の局部にモザイクをかけていく。
右のペダルを踏むと映像が進み、左で戻る。
ゲシュタルト崩壊が起き、特に女性の裸を見ても何も感じなくなってしまう。
濃すぎるのは良いが、絶対に外してはいけないので、結局濃い目のモザイクになってしまう。
社長に「プジーくんがかけたヤツ、濃すぎない?」と言われたりした。
世の中の濃すぎるモザイクは私の様な情熱の無いモザイク職人によって生まれたモノだと思う。
バイトの仲間の年齢が近くて、楽しい職場ではあったが、時給が安かったので、漫画に時間を取りたい私はフェードアウトを考えた。
次の仕事に選んだのは、塾講師だ。
求人サイトで見かけた仕事の中で一番の高時給だったからだ。
二次面接面接くらいまであって、全然連絡が無いから落ちたかな、と思っていたが、合格だった。
初めは全然授業を持たしてもらえず、研修だけの日々が続いた。
私が飛び込んだ塾は、都内最大手と言っても良い、都内だけで100校は超えるスパルタ系の塾であった。
その中でも、成績が都内トップクラスの校舎。
講師はベテラン揃いで、授業を講師が奪い合うと言う厳しい環境であった。
漫画家も塾講師も資本主義の中では、仕事を奪い合わなければならない事を痛感した。
3ヶ月くらいしてようやく初めての授業だった。
都内大手の塾で、生徒も多く、デビューは1番の大人数の小学5年生の理科のクラス。
中学受験のクラスで内容が難しい上に、生徒は生意気だった。
生徒からは「チャックが開いてるよ」などと嘘を付かれて、一応確認しては馬鹿にされると言う失態をやらかした。
にも関わらず、教えると言う仕事に、かつて無いフィット感を感じたのだった。
回顧録4〜Tさんとの出会い〜
トキワ荘に入居した時から、隣の4畳半の部屋には入居の面談の時に出会ったM氏が管理人として住んでいた。
M氏とは部屋がふすま越しであり、とにかく部屋が汚かった。
M氏は朝起きると「ニャー」と言いながらシャワーを浴びて、仕事に向かうので、私はいつも起こされた。
それと遅刻ギリギリなので、他人の事ながら遅刻するんじゃないかと、凄く不安だった。
2007年8月、Tさんと言う漫画家が面談にやって来る事になった。
その時にはもう部屋は埋まっており、もう入る部屋はない。
どうするのか、と思っていると、M氏がトキワ荘を出るという。
M氏の部屋は漫画だらけだったが、家具という家具はなく、ほとんど漫画だけの部屋だったので、引っ越しは早々に終わった。
Tさんの面談には私も立ち会った。
Tさんは実力者で、ヤングジャンプで賞をもらってデビューもしていた。
絵もストーリーも上手くて、私は隣に入居して欲しかった。
何より、良い人そうだった。
Mさんは引っ越したとは言え、微妙に段ボールが残っていたりして、4畳半の薄暗いこの部屋に住もうと思ってもらえるか、非常に不安だったが、Tさんは住むことにした。
Tさんの生活は慎ましく、4畳半の畳部屋を実にうまく使った。
ヤングマガジンと言う雑誌に担当編集者がいて、私にとっては羨望の対象だった。