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スマホアプリ「コインパズル」開発者の日記https://bit.ly/35gpWAB

回顧録9〜共作〜

話は担当が外れた事に戻るが、ようやく自分の才能の無さに気づいて一週間くらい凹んでいたと思う。
担当が自分で降りる、と言った漫画家仲間の話など、聞いた事がない。
襖越しの共同生活をしているTさんはそんな状況を見かねてか「そのネーム、オレが直したろか」と言った。
 
 
若干のクリエイターとしてのプライドが引っかかったが、自分の話がTさんの手でどんな風に変化するかの方が興味があったので、お願いすることにした。
私が3回ほど直したネームの3回分を良いところだけ取って、Tさんは見事な展開を作り上げた。
Tさんのネームではキャラが泣いていた。
泣いた理由がよく分かった。
それを見て、主人公が行動をしていた。
 
私のネームでは、私自身がキャラを操り人形の様に、糸を強引に引っ張って、ぎこちない動きをさせていたのだが、Tさんのネームを読むと、キャラの行動理由がしっかり読み取れた。
キャラの心情の解像度が高く、漫画ってこんな風に書くんだな、ってのが少し分かった気がした。
私は普段、人間の心情などあまり読み取れない風情の無い人間なんだろうな、とも思った。
 
そのネームは2人でペン入れまでする事にした。
キャラは主に私が、背景は主にTさんが描いてくれた。
ペンネームはフスマゴシ、私たちの襖越しの生活から取った。
 
ジャンプ、マガジン、アフタヌーンなど一番好感触なところを探すために2人で出来るだけ色々なところに持ち込みに行った。
どこでも名刺は貰えたし、好感触だった。
T氏がデビューしている、というのも大きかったのかもしれない。
私の頭の中には、「これは本来、私の力ではない」という思いは常にあった。
流れやアイデア、キャラデザインは私のものだし、自分の貢献もあるだろう。
しかし、一番漫画家として重要な「演出」はT氏に持って行かれているのである。
多分。
 
結局、一番評判が良かったスピリッツにそのまま応募した。

回顧録8〜漫画家アシスタント〜

大学を卒業して一年くらい経った時の事である。
同居人のA君が漫画家アシスタントをしていたのだが、辞めると言う。
私は丁度、漫画修行がしたいと思っていたので、代わりにやらせて貰えないかとA君に頼んだ。
自分で描いた背景と、I can seeを送ると、とりあえず来て、と言う話になった。
 
初回は、黒ベタを塗ったり、トーンを貼ったりした。
周りのアシスタントは自分より圧倒的に絵が上手くて、自分はいつまで経ってもトーン貼りと買い出しと、ベタ塗りと、トーン削りくらいしかやらして貰えそうになかった。
先生はとにかく声が小さいし、指示を書いた文字も読み取りにくい。
聞き返すと機嫌が悪くなる気がする。
家がボロくて汚くて片付いてない。
そんな感じだけど、ラジオはずっとJ-WAVE
 
 
ただ、圧倒的に絵が上手い。
漫画の紙面で見るよりずっと上手い。
1つの絵にここまで拘るかってくらい拘る。
背景の地面には青いシャーペンでパースが書き込まれている。
寝ない。
締め切りの直前まで粘りまくる。
そして夜明けにバイク便で送る。
採算など多分考えてない。
全てを作品のために出し切る、漫画家の理想系がそこにあった。
 
ある日、先生と2人の時、家にある観葉植物を倒してしまった。
そしたら、「何てことしてくれるんだ、おれの唯一の家族を!」って言ってて
気の利いた自虐ギャグだと思うんだけど、笑って良いのか分からなかった。
ただ、打ち解けた雰囲気は少しずつ出て来た気がして、そろそろ背景を描かせてもらえないか、とお願いした。
すると、練習という事で、背景の宿題を出してくれた。
ネームも見てくれる様になった。
一週間後、忙しいはずなのに、ネームに赤がいっぱい入って返ってきた。
ここまで考えてネームって作るんだ、と言うのが率直な感想だった。
嬉しかったし、有り難かった。
今も持っていて、多分一生捨てる事は無い。
 
 
一年半くらい務めて、先生の漫画は見事完結した。
後に先生の漫画はドラマ化され、原作同様面白かった。
もうあの家には住んでいないだろう。

回顧録7〜担当が外れる〜

出オチみたいなタイトルで内容は分かると思う。
希望はすぐに断たれるのだ。
 
トキワ荘に入って、ちょうど一年が過ぎ、私は「I can see…」のネームを直していた。
ネームというのは本来、連載漫画家なら20ページの漫画であれば1日で終わるらしいので、私の描こうとしている、32ページの漫画なら、2日で終えなければならない。
なのに、直せば直すほど、どんどんつまらなくなっていく気がして、もう二週間は過ぎていた。
 
 
 
直したネームを持って行ったのは、1ヶ月位経った後だった。
あまり覚えていないのだが、とにかくボコボコに言われて、もう一度直さなければならなくなった。
夏にお盆という事で、実家に帰ったのだが、そこでも親に生活を心配されながら、ネームを直していた。
もう、面白いのか、面白くないのか全然分からない。
 
9月くらいにまたネームを担当さんに持って行った。
予約はしていた筈なのに、本人不在でネームだけ置いて帰った。
 
その夜、電話があって
「つまらない。もう担当は辞める」
と言われてしまった。
 
私は隣の部屋のTさんに愚痴ると
「いい担当さんやったんちゃうん?俺の担当なんかずっと飼い殺しやで・・」
と言った。
なんだか、フォローされているのか、馬鹿にされているのか分からなかった。
が、今になってみると、面白くないと思いつつ、ずっとネームを直されるより、バッサリ切ってくれた方が有難いと思う。
Tさんは新作のネーム直しを10回くらい食らっていた。
3回くらいのネーム直しで露頭に迷っている様では、根性が足りん、という事だろう。
 
前に働いていたDVD制作会社で、映画監督を目指していた先輩が言っていたことを思い出した。
「世の中には2種類のクリエイターがいる。
直せば直すほど作品が良くなるやつと
直せば直すほど作品がつまらなくなるやつだ」
私はどうやら、後者だったらしい。

回顧録6〜担当が付く〜

2007年、10月「I can see…」と言う漫画を描き始めた。
人と人の間に存在する愛を見ることが出来る女子高生の話であった。
この話はネームという漫画の下書きを描いた時点で、ふすま越しの隣人Tさんが褒めてくれた。
私自身も手応えを感じ、完成させて、小学館スピリッツに持っていった。
 
なんと、高評価だった。
その場で見た編集者の方が担当になってくれた。
私は嬉しくて小学館を出て、Tさんに電話したら、喜んでくれた。
 
しかし、それはまた、新たな試練の始まりでもあった。
担当編集になってくれた方は、
「今のままだと一番下の奨励賞止まりだけど、内容を盛り込んで32ページくらいの漫画にすれば、もっと上の賞が狙える」
と言ってくれた。私は直す事にした。32ページならと新たにキャラクターを加えたりもした。ネームを直すのに、1ヶ月くらいかかってしまった。連載作家が下書きを直すのに、1ヶ月もかかっていてはどうしようもないので、ここは何とかしなければいけない、と思った。
 
頑張って32ページにしたネームを小学館に持ち込む。
ドキドキしてネームを見せると、編集者の顔がみるみる曇っていく。
「ダメになってる」
そう言われた。
 
絶望的な気分になりながらスピリッツの編集部から出ようとすると、キャリーバックを持った黒ギャルが編集部に入っていった。
黒ギャルは漫画家だったらしく、中でちやほやされていた。
あの黒ギャルに漫画の才能があって、私には無いらしい。
後から友達に聞いた話だが、どうやらそれは、浜田ブリトニー先生だったらしい。

回顧録5〜塾講師を始める〜

私は当時、大学のデザイン学科で学んだ技術を活かしてDVDのメニュー画面を作るバイトをしていた。
映画のDVDだと研究室の先輩に聞いて入ったのだが、入ってみるとほとんどエロビデオだった。
フォトショップと言うソフトで100本くらいは自分が作ったメニュー画面を世に送り出したと思う。
あまり抵抗も無かったので、淡々と仕事をしていたが、時々検品の作業もあって、内容がしんどいモノもあった。
排泄物やゴキブリが出てくる様なキワモノAVの検品もあって、それを2時間くらい検品していると頭がおかしくなった。
時にはモザイクをかける仕事もあって、ガンダムコクピットの様な操作機材の前で延々と女性の局部にモザイクをかけていく。
右のペダルを踏むと映像が進み、左で戻る。
ゲシュタルト崩壊が起き、特に女性の裸を見ても何も感じなくなってしまう。
濃すぎるのは良いが、絶対に外してはいけないので、結局濃い目のモザイクになってしまう。
社長に「プジーくんがかけたヤツ、濃すぎない?」と言われたりした。
世の中の濃すぎるモザイクは私の様な情熱の無いモザイク職人によって生まれたモノだと思う。
バイトの仲間の年齢が近くて、楽しい職場ではあったが、時給が安かったので、漫画に時間を取りたい私はフェードアウトを考えた。

次の仕事に選んだのは、塾講師だ。
求人サイトで見かけた仕事の中で一番の高時給だったからだ。
二次面接面接くらいまであって、全然連絡が無いから落ちたかな、と思っていたが、合格だった。

初めは全然授業を持たしてもらえず、研修だけの日々が続いた。
私が飛び込んだ塾は、都内最大手と言っても良い、都内だけで100校は超えるスパルタ系の塾であった。
その中でも、成績が都内トップクラスの校舎。
講師はベテラン揃いで、授業を講師が奪い合うと言う厳しい環境であった。
漫画家も塾講師も資本主義の中では、仕事を奪い合わなければならない事を痛感した。
3ヶ月くらいしてようやく初めての授業だった。
都内大手の塾で、生徒も多く、デビューは1番の大人数の小学5年生の理科のクラス。
中学受験のクラスで内容が難しい上に、生徒は生意気だった。
生徒からは「チャックが開いてるよ」などと嘘を付かれて、一応確認しては馬鹿にされると言う失態をやらかした。
にも関わらず、教えると言う仕事に、かつて無いフィット感を感じたのだった。

回顧録4〜Tさんとの出会い〜

トキワ荘に入居した時から、隣の4畳半の部屋には入居の面談の時に出会ったM氏が管理人として住んでいた。
M氏とは部屋がふすま越しであり、とにかく部屋が汚かった。
M氏は朝起きると「ニャー」と言いながらシャワーを浴びて、仕事に向かうので、私はいつも起こされた。
それと遅刻ギリギリなので、他人の事ながら遅刻するんじゃないかと、凄く不安だった。

 

2007年8月、Tさんと言う漫画家が面談にやって来る事になった。
その時にはもう部屋は埋まっており、もう入る部屋はない。
どうするのか、と思っていると、M氏がトキワ荘を出るという。

M氏の部屋は漫画だらけだったが、家具という家具はなく、ほとんど漫画だけの部屋だったので、引っ越しは早々に終わった。

Tさんの面談には私も立ち会った。
Tさんは実力者で、ヤングジャンプで賞をもらってデビューもしていた。
絵もストーリーも上手くて、私は隣に入居して欲しかった。
何より、良い人そうだった。
Mさんは引っ越したとは言え、微妙に段ボールが残っていたりして、4畳半の薄暗いこの部屋に住もうと思ってもらえるか、非常に不安だったが、Tさんは住むことにした。

Tさんの生活は慎ましく、4畳半の畳部屋を実にうまく使った。
ヤングマガジンと言う雑誌に担当編集者がいて、私にとっては羨望の対象だった。

回顧録3〜取材されました〜

トキワ荘に引っ越した。
バイト先から借りたトラックで3往復くらいして、明け方までかかったが、何とか荷物を運び込んだ。
 
引っ越し当日にM氏から連絡があって、バンキシャと言う番組が夢見る若者を取材したい、と言う事だったので、別に良いですよ、と言った。
その日から、私に3ヶ月くらい、テレビの記者さんが張り付く事になった。
飯時も漫画を描く時も、寝るまでずっとカメラが回っている生活だった。
取材されるのは私と同居人のA君だった。
他の同居人にも頼んだ様だが、テレビに出ても良い、などというバカは私とA君だけだった。
 
その時「アントクヒトウム」と言う作品を描いていた。
アントクアリウム、なるアリを飼う事ができるキットがあって、それにヒントを得て描いた漫画だった。
人間がアリの様に飼われて、神からずっと監視されている、と言うストーリーである。
最後は主人公がその檻を出ていくと、実は主人公はアリで、人間が監視していた、と言うオチの話だった。
 
それを描く所をずっと取材されていた。
時々インタビューを受け、自信と野心を剥き出しにすると、放映時に勝手にビッグマウスというあだ名を付けられた。
流石テレビ、取材者には媚びる癖に、放送する時は容赦無いのだ。
その何も知らないアホなビッグマウスが、「アントクヒトウム」を同じく講談社に持ち込み、前回も見せたアフタヌーンの洒脱な編集者に見せる。
私はテレビの記者に、いや全国の人々に一泡吹かせてやるつもりだった。
しかし、泡を吹いたのは自分であった。
前回、あまり厳しいことを言わなかった編集者は、今回に限り私の漫画をボロクソに言った。
カメラが回っていると何故か厳しかった。
単純に今回の作品が、酷かったのかも知れない。
元来打たれ強い無神経な私も、今回ばかりは参った。
私は、全国に向けて恥を晒すことに恐怖した。
 
それから、同居人のA君は撮影なかばで取材班と揉めて、取材を断った。
恐らく、私の惨状を見ての賢い行動であったのだろう。
群像劇にしたい、とテレビのディレクターは話していたので、これで取材はお釈迦かな、と思ったが、甘かった。
なんと、私1人のドキュメンタリーになってしまったのだ。
 
その後は、「ブーメランリバー」と言う作品を描いた。
川で、人生に行き詰まった男が、対岸に向かって男が石を投げている。
気がついたら投げた石が自分に跳ね返って来る。
向こう岸がどうなっているのか気になって、川に飛び込んで自分が対岸に向かって泳いでいくと、どんどん若返って、高校生まで戻る。
若返って川の向こうから対岸を眺めて、自分の将来を考える、と言う話しだった。
その漫画の背景資料を撮るために、多摩川に撮影に行ったのだが、それにもカメラが同行した。
 
その作品は「アックス」と言う雑誌に持ち込んだ。
少し褒められたが、ウチの雑誌では厳しいと言われた。
ディレクターは話として成立したと判断したのか、カメラに追われる日々はそれで終わりとなった。