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色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

読んだ。


いろいろバッシングは受けてるけど、やっぱり面白かった。


書評はいろんな人が書いているし、読み終わった後、考えた事を書く事にする。


今回の話も酷く観念的な話だった。
観念的すぎて、少し宗教じみてすらいる。
観念的というのは、全てのものには意味がある、と言う考え方だと捉えている。
観念的と言うのは、今日と言う何の変哲の無い一日にも神的な者から与えられた特別な意味がある、と言う考え方だと捉えている。
観念的と言うのは、人間はその人の持っている役目を終えるとすぐ死ぬ、と言う考え方だと捉えている。
観念的な考え方は嫌いではない。

村上春樹はひどく観念的な小説家だと思う。
例えばノルウェーの森、とかも過去の性体験を後になって回想し、過去に意味付けしていく話だった様な気がする。
この出来事は人生において、こう言う意味がありました、と言う観念的な意味付けを行う話だった様な気がする。



観念的な考えには救いがあると思う。
自分の人生には何かしらの意味があり、例えば苦しい事にも意味があると捉えなきゃやってられない瞬間はいくらでもある。
世界が観念的である事は大きな救いだと思う。
だけど、世の中全て観念的ですよ、と言い切る事は実に難しい。


観念論の反対は唯物論


例えば観念的に言えば、神的な何かによって、目が足ではなく、顔の一部に付けられたと言う事もできるし、唯物的に言えば、それは自然淘汰の結果だと言える。
しかし、光が見える事は本当に自然淘汰の結果だろうか。
光の正体は電磁波だけれど、その中で多くの物体が反射する波長だけが目に見えて、透過してしまう波長は見えずに、人間を壁等との不必要な衝突から避けているのも自然淘汰だろうか。
自然淘汰都合良すぎないか?と観念的な自分は思う。


観念的で無い宗教は一つもない。
あらゆる宗教はあらゆる出来事を観念的に説明する。
目が足についていたら、歩く度に目が潰れるし、何も見えずに不都合だろう。
そうで無いのは神のお陰であり、神に感謝すべき、ってのが非常に乱暴だけれど大体の宗教の教えなんじゃないだろうか。
だけど、科学が進歩した現在、既存の宗教の説得力が弱まっている。
西洋の科学者は神が作り出した法則を発見する為に科学を研究している人も少なく無いらしいが、科学は神なんかいない、と言う方向に一役買っている様に思う。
だけどだけど、世界が観念的な側面があるのは変わらない。
科学が進歩し、世界が唯物的になり続けた結果、人々は観念的なものを求め、村上春樹が世界で読まれているのではないか。


占いや宗教を信じた時の、何かに包まれた様な安心感。
そんなものを村上春樹の小説に求めてるんだと思う。
村上春樹の小説を既存の小説の歴史の中に置きたく無い。
それをやってしまうと、村上春樹も唯物的になってしまう気がする。
だけど安心して欲しい。
世界は観念的にできている。
世界を観念的に捉えやすくしたものが宗教なのだ。
観念的なもの(神的なもの)をある角度から見れば、キリスト教だし、別の角度から見れば仏教だったり、ある角度から見れば村上春樹なんだと思う。
少なくとも村上春樹は「世界は観念的だよ」と言い続けてると信じてるし、自分もそう思う。


そう言う意味では村上春樹は現代宗教なんだと思う。
別にみんな村上春樹を信じれば良い、と思うんじゃなくて、これからは一人一人が観念的なものをどう捉えるかを考え、一人一宗教の時代になればクールだと思う。